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惜別
長年にわたり組織を支えてくださり、ありがとうございました。
謹んで冥福をお祈りいたします。
黒川秋三
享年89歳
明治44年9月生
平成11年1月永眠
三塚正二郎
享年84歳
大正2年3月生
平成10年10月永眠
大竹清
平成13年3月永眠
小関晟
享年59歳
平成11年3月永眠
石田兵一
享年89歳
明治44年9月生
平成11年1月永眠
土田弼輔
享年74歳
平成3年5月永眠
園山和夫
享年65歳
平成3年永眠
村上駒雄
享年81歳
平成5年9月永眠
渡辺直人
享年68歳
平成6年永眠
小林俊輔
享年76歳
平成7年1月永眠
鏡孝作
享年81歳
平成11年2月永眠

黒川秋三
明治44年9月生
平成11年1月永眠
享年89歳

山スキーと くろさん
横浜スキークラブ 川野慎一
 昭和24年12月、初スキーを燕温泉スキー場で経験した私達は、宿が朝日屋旅館であり、横浜から来ている黒川秋三さんの印象は然程強力ではありませんでした。ご存知の通り燕のゲレンデは狭く、比較的すいているため朝のラッセル時など(圧雪車などない時代なのでスキーで登りながらコースを作る共同作業)自然と言葉を交わすようになってきて黒川さんの存在を知り、家も近くスキー外でも色々とご指導を受けました。
 3年経過した昭和27年、少しは上達した私たち高校生の仲間と正月の燕温泉に来たとき、黒川さんたちのお仲間と再会することが出来ました。その時黒川さんより衝撃的な話を聞かされました。それは、今月20日ごろに赤倉で国体予選会兼郡市対抗(今の県総体)があるので少年組から出場してくれないかとのお誘いでした。
 まだまだ、よちよち歩きの私たちにとっては絶対にありえない話でしたが、とりあえずスキー競技会を見に行ってみるかと相談がまとまり6,7人で応援方々赤倉丸山スキー場へ夜行の上野駅から朝の大会に間に合わせるため田口駅(今の妙高高原駅)から踏跡のない赤倉までマラソンの様に走っていき、なんとか競技会に間に合わすことが出来ました。そのときの黒川さんは、壮年組から出場され、私たち少年組には雲の上の人のように見え、今でも瞼に焼き付いています。
 昭和27年6月に関東学院大学山岳部の2名が谷川岳一の倉沢4ルンゼで遭難し、私たちが捜索隊として一の倉沢へ行ったとき黒川さんは総監督として指揮を取られていました。
 その後、黒川さんから競技スキーのクラブを作るお話があり、学生だった私たち数人が、横浜スキークラブ発足の昭和27年にクラブに入れていただき、黒川さん達のご指導を受けることになりました。
 黒川さんは、昭和60年に「雪艇(スキー60年史)」を「出版され、戦前から戦後の山とスキーの歴史を詳しく紹介されました。
 なお、上部団体でのご活躍については割愛させて頂きました。

三塚正二郎
大正2年3月生
平成10年10月永眠
享年84歳

おやじさんを偲ぶ
相模原スキー協会 小林幹夫

 協会員は言うまでもなく、職場、体育関係、地域の人々から、おやじさんと慕われていた三塚名誉会長が、幽明境を異にされてから3年の月日が経つが、幼い子を見る時の優しい目、叱られるときの三角目玉、飲んでいるときの穏やかな目、あの元気な声が…。
 ヒッコリーのスキーを床の間に立て掛け、新婚ホヤホヤの奥さんを呼びつけ、俺はおまえよりこのスキーのほうが大切なんだから、かりそめにもおろそかにするんじゃないと言ったとか、会議なんかがあると「この男は暴れ者で手が付けられない」と紹介されるので、それを返上するのに大変時間がかかったが、私の人生を変えてくれたのが、大井工場スキー部であった。
 距離の選手で、登りは誰にも負けないが、下りは苦手で1シーズンにスキーを8本も折ったり、明治神宮大会に出場したりと良い思いでを胸に、昭和21年に橋本工場に転勤してから選手を育てて、神奈川代表として、7,8人連れて行った。と若い頃の話を杯を傾けながら、スキーの四方山話とともに語り合った姿が鮮やかに蘇ってくる。その話の中に、趣味とは人生を通じて、一つでありそれを中心に枝葉が出るのは良いが、その人からそれを除いたら何も残らないのが趣味で、そうでなければただの道楽だと。
 三塚さんの人生は、趣味を中心にした体育スポーツ仲間づくりに終始していたと思います。友愛、信義、チークワークをモットーに、協会会員に組織のあり方、同好の仲間つくり、育て方等についてアドバイスを戴きました。まさに上記の言葉どおりスキーを趣味とした一生であったと思います。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。残された我々も、おやじさんの意に沿った協会運営を目指して会員一同協力していきますので、もし間違いがありましたら、天から三角目玉で叱りとばして下さい。

大竹清
平成13年3月永眠

県スキー連盟の危機を救った男
横浜スキークラブ 木村慶久

 昭和39年11月、シーズン開幕直前に県連内部の人事問題で混乱が生じ、運営が停止寸前状態になっていた時に、事態の収拾にあたったのが、推薦により就任した柳沢須佐男(現顧問)と大竹清氏の正・副理事長でした。
 「大竹さんは、大変人望も厚く温厚な人で、当時県連の運営に関してはまったく無知だった私を助け、一期2年の間に、村上・大久保・石川3氏の副会長の協力を得て、県連の崩壊を救ったばかりか、運営の近代化と組織化を図り、今日の県連の組織運営の基礎をつくりあげた影の功労者なのです。」と柳沢顧問が当時のことを語る。
 大竹さんは、法政大学スキー部の時代から苦労を重ね、実力をつけ横浜スキークラブ(国鉄大井工場スキー部)に籍をいれてからは、昭和30年から40年にかけて、国体スキー大会や全日本スキー大会に十数回出場した実績の持ち主です。
 県連のリーダーとして大会運営などに関しても、多くの選手に慕われる、なくてはならぬ存在の人でした。
 その後、家庭の事情で生まれ故郷の水上町へ変えられたあとも、群馬県スキー連盟の選手や役員として活躍、水上町の助役や環境協会の役職をやられ、町の活性化に大いに貢献されたのですが、病に倒れ還暦を前に高居されました。ご冥福をお祈りいたします。

小関
平成11年3月永眠
享年59歳

横浜スキークラブ 川野慎一
 小関晟氏の記録を紐解いてみると、昭和41年浦佐の神奈川県総体に横浜スキークラブの大竹清、若旅経男、木村慶久、若旅実などと出場している。その後、42年の石打大会から50年の国際大会に連続9回横浜市代表として出場し、国体出場は昭和37年の小樽大会から53年の野沢大会まで9回出場、52年の大鰐大会では成年男子4部で堂々の3位入賞を果し、青森の地元で花を咲かせました。
 私の記憶では、横浜スキークラブに入る前は日本鋼管スキー競技部に所属していたが、競技スキー部が廃部となり国鉄大井工場のスキー部に所属し、横浜スキークラブでの中心的な存在となりました。もちろん県連、市協にも推薦され上部団体でも大活躍しました。ただ、お酒が好きなことと、リーダーに良く有りがちなワンマンな所もあり、意見の相違もあったようです。(敬称略)

石田兵一
明治44年9月生
平成11年1月永眠
享年89歳

神奈川県スキー連盟顧問 副会長を昭和30年から30年まで務める
 戦後の昭和22年から理事を務め、昭和30年に副会長になる。同年の昭和30年から43年まで、横浜スキー協会の初代会長を務め、協会の基盤を築き、指導者の育成に尽くされました。

土田弼
平成3年5月永眠
享年74歳

神奈川県スキー連盟顧問 副会長を41年から50年まで務める
 故人は、神奈川県所属正指導員第1号ライセンス所持者であり、川崎スキー協会の会長を長年歴任したほか、神奈川県スキー連盟副会長、顧問、さらには指導員会の会長として、各種行事にも元気な姿で活躍されていたのが目に浮かぶようです。故人のご冥福をお祈りするとともに、故人からの教えを糧として今後のスキー活動に十分生かしていく所存です。(SAKだよりから)

園山和夫
平成3年永眠
享年65歳

 園山さんは昭和44年前半にSAJ常任理事となり、総務部長兼傷害防止対策委員会委員長となられた。
 当時、SAJと日赤の二本立ての体制であったスキーパトロールの養成、公認問題について日赤と協議して、共催、両公認の道を開き、数多くの公認パトロールを生み出した。
 1979年カルガリで開催された第1回国際パトロールシンポジウムで、園山さんはFIPSの副会長に選任され、第5回FIPS総会を車山で催し、スキー傷害対策の国際的なドンとして名を馳せた。
 園山さんの雪の上への足跡の大きさに改めて敬服申し上げたい。(SAKだよりから)

村上駒雄
平成5年9月永眠
享年81歳

神奈川県スキー連盟顧問 副会長を昭和39年から40年まで務める
 故人は、大正元年8月、樺太大泊に生まれ、少年時代にスキーを覚えた。その後、東京に出て4年間学校に学び、現東芝に入社。
 昭和10年10月、川崎駅西口、丸山さんの店(スキー)に通い、両氏でクラブを作る。市・県などにスキースポーツの振興を啓発。戦後は日進工業を起こし社長。県連復活の昭和22年からは理事、副会長、市協会会長など歴任。川崎スキー協会の偉大な礎石でもありました。(SAKだよりから)

渡辺直人
平成6年永眠
享年68歳

神奈川県スキー連盟顧問 副理事長を昭和35年から36年まで務める
 故、渡辺直人名誉会長は、戦後間もない昭和23年に、横須賀スキー協会の前身である横須賀山岳会に当初から参画し、昭和29年に設立された横須賀スキー協会初代理事長として、組織の整備などに尽力を尽くされました。
 昭和35年から副会長、39年から平成元年まで会長を歴任、それから名誉会長として活躍され、まさに横須賀スキー協会史そのものでありました。
 協会も名誉会長の意思を引き継ぎ、温厚な人柄とその指導直を範として、協会員一同今後とも努力していくことを誓い、ご冥福をお祈りいたします。(SAKだより)

小林俊輔
平成7年1月永眠
享年76歳

神奈川県スキー連盟顧問 副会長を昭和58年から63年まで務める
 多くの人から”俊さん”の名称で慕われた、県連の元副会長で藤沢スキー協会の会長でした。
 小林さんはもともと山が好きで、多くの山を征服し、元の勤務先のシロキ(株)時代に藤沢に転じてから本格的にスキーに打ち込まれました。後輩を指導するには自分が指導員にならなくてはと、50歳を超えてから準指導員に挑戦、昭和48年には指導員に挑戦していずれも見事に一発合格をはたし、多くの指導員を育成するとともに、県連の要職や地元の藤沢スキー協会会長を長く務められました。心からご冥福をお祈りいたします。
(SAKだよりから)

鏡孝作
平成11年2月永眠
享年81歳

神奈川県スキー連盟顧問 理事・会計を昭和29年から38年まで務める
 昭和30年代の初めに県連理事、会計を務め、当時、郡市対抗競技会では選手として活躍、鎌倉スキー協会の創立時は副会長として協会を支えました。ご冥福をお祈りいたします。

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