惜別
長年にわたり組織を支えてくださり、ありがとうございました。 謹んで冥福をお祈りいたします。 |
山スキーと くろさん |
横浜スキークラブ 川野慎一
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昭和24年12月、初スキーを燕温泉スキー場で経験した私達は、宿が朝日屋旅館であり、横浜から来ている黒川秋三さんの印象は然程強力ではありませんでした。ご存知の通り燕のゲレンデは狭く、比較的すいているため朝のラッセル時など(圧雪車などない時代なのでスキーで登りながらコースを作る共同作業)自然と言葉を交わすようになってきて黒川さんの存在を知り、家も近くスキー外でも色々とご指導を受けました。 3年経過した昭和27年、少しは上達した私たち高校生の仲間と正月の燕温泉に来たとき、黒川さんたちのお仲間と再会することが出来ました。その時黒川さんより衝撃的な話を聞かされました。それは、今月20日ごろに赤倉で国体予選会兼郡市対抗(今の県総体)があるので少年組から出場してくれないかとのお誘いでした。 まだまだ、よちよち歩きの私たちにとっては絶対にありえない話でしたが、とりあえずスキー競技会を見に行ってみるかと相談がまとまり6,7人で応援方々赤倉丸山スキー場へ夜行の上野駅から朝の大会に間に合わせるため田口駅(今の妙高高原駅)から踏跡のない赤倉までマラソンの様に走っていき、なんとか競技会に間に合わすことが出来ました。そのときの黒川さんは、壮年組から出場され、私たち少年組には雲の上の人のように見え、今でも瞼に焼き付いています。 昭和27年6月に関東学院大学山岳部の2名が谷川岳一の倉沢4ルンゼで遭難し、私たちが捜索隊として一の倉沢へ行ったとき黒川さんは総監督として指揮を取られていました。 その後、黒川さんから競技スキーのクラブを作るお話があり、学生だった私たち数人が、横浜スキークラブ発足の昭和27年にクラブに入れていただき、黒川さん達のご指導を受けることになりました。 黒川さんは、昭和60年に「雪艇(スキー60年史)」を「出版され、戦前から戦後の山とスキーの歴史を詳しく紹介されました。 なお、上部団体でのご活躍については割愛させて頂きました。 |
おやじさんを偲ぶ |
相模原スキー協会 小林幹夫
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協会員は言うまでもなく、職場、体育関係、地域の人々から、おやじさんと慕われていた三塚名誉会長が、幽明境を異にされてから3年の月日が経つが、幼い子を見る時の優しい目、叱られるときの三角目玉、飲んでいるときの穏やかな目、あの元気な声が…。 |
県スキー連盟の危機を救った男 |
横浜スキークラブ 木村慶久
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昭和39年11月、シーズン開幕直前に県連内部の人事問題で混乱が生じ、運営が停止寸前状態になっていた時に、事態の収拾にあたったのが、推薦により就任した柳沢須佐男(現顧問)と大竹清氏の正・副理事長でした。 |
横浜スキークラブ 川野慎一
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小関晟氏の記録を紐解いてみると、昭和41年浦佐の神奈川県総体に横浜スキークラブの大竹清、若旅経男、木村慶久、若旅実などと出場している。その後、42年の石打大会から50年の国際大会に連続9回横浜市代表として出場し、国体出場は昭和37年の小樽大会から53年の野沢大会まで9回出場、52年の大鰐大会では成年男子4部で堂々の3位入賞を果し、青森の地元で花を咲かせました。 私の記憶では、横浜スキークラブに入る前は日本鋼管スキー競技部に所属していたが、競技スキー部が廃部となり国鉄大井工場のスキー部に所属し、横浜スキークラブでの中心的な存在となりました。もちろん県連、市協にも推薦され上部団体でも大活躍しました。ただ、お酒が好きなことと、リーダーに良く有りがちなワンマンな所もあり、意見の相違もあったようです。(敬称略) |
神奈川県スキー連盟顧問 副会長を昭和30年から30年まで務める |
戦後の昭和22年から理事を務め、昭和30年に副会長になる。同年の昭和30年から43年まで、横浜スキー協会の初代会長を務め、協会の基盤を築き、指導者の育成に尽くされました。 |
神奈川県スキー連盟顧問 副会長を41年から50年まで務める |
故人は、神奈川県所属正指導員第1号ライセンス所持者であり、川崎スキー協会の会長を長年歴任したほか、神奈川県スキー連盟副会長、顧問、さらには指導員会の会長として、各種行事にも元気な姿で活躍されていたのが目に浮かぶようです。故人のご冥福をお祈りするとともに、故人からの教えを糧として今後のスキー活動に十分生かしていく所存です。(SAKだよりから) |
園山さんは昭和44年前半にSAJ常任理事となり、総務部長兼傷害防止対策委員会委員長となられた。 当時、SAJと日赤の二本立ての体制であったスキーパトロールの養成、公認問題について日赤と協議して、共催、両公認の道を開き、数多くの公認パトロールを生み出した。 1979年カルガリで開催された第1回国際パトロールシンポジウムで、園山さんはFIPSの副会長に選任され、第5回FIPS総会を車山で催し、スキー傷害対策の国際的なドンとして名を馳せた。 園山さんの雪の上への足跡の大きさに改めて敬服申し上げたい。(SAKだよりから) |
神奈川県スキー連盟顧問 副会長を昭和39年から40年まで務める |
故人は、大正元年8月、樺太大泊に生まれ、少年時代にスキーを覚えた。その後、東京に出て4年間学校に学び、現東芝に入社。 昭和10年10月、川崎駅西口、丸山さんの店(スキー)に通い、両氏でクラブを作る。市・県などにスキースポーツの振興を啓発。戦後は日進工業を起こし社長。県連復活の昭和22年からは理事、副会長、市協会会長など歴任。川崎スキー協会の偉大な礎石でもありました。(SAKだよりから) |
神奈川県スキー連盟顧問 副理事長を昭和35年から36年まで務める |
故、渡辺直人名誉会長は、戦後間もない昭和23年に、横須賀スキー協会の前身である横須賀山岳会に当初から参画し、昭和29年に設立された横須賀スキー協会初代理事長として、組織の整備などに尽力を尽くされました。 昭和35年から副会長、39年から平成元年まで会長を歴任、それから名誉会長として活躍され、まさに横須賀スキー協会史そのものでありました。 協会も名誉会長の意思を引き継ぎ、温厚な人柄とその指導直を範として、協会員一同今後とも努力していくことを誓い、ご冥福をお祈りいたします。(SAKだより) |
神奈川県スキー連盟顧問 副会長を昭和58年から63年まで務める |
多くの人から”俊さん”の名称で慕われた、県連の元副会長で藤沢スキー協会の会長でした。 小林さんはもともと山が好きで、多くの山を征服し、元の勤務先のシロキ(株)時代に藤沢に転じてから本格的にスキーに打ち込まれました。後輩を指導するには自分が指導員にならなくてはと、50歳を超えてから準指導員に挑戦、昭和48年には指導員に挑戦していずれも見事に一発合格をはたし、多くの指導員を育成するとともに、県連の要職や地元の藤沢スキー協会会長を長く務められました。心からご冥福をお祈りいたします。 (SAKだよりから) |
神奈川県スキー連盟顧問 理事・会計を昭和29年から38年まで務める |
昭和30年代の初めに県連理事、会計を務め、当時、郡市対抗競技会では選手として活躍、鎌倉スキー協会の創立時は副会長として協会を支えました。ご冥福をお祈りいたします。 |
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