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競技本部指導者セミナー
平成16年11月14日(日) 元SAJヘッドコーチ 古川年正 氏

古川年正氏
セミナーで講演していただきました

◆競技本部指導者セミナー 元SAJヘッドコーチ 古川年正 氏

 今、SAJは堤前会長の辞任、伊藤新会長の就任と大変な状況にあります。また、新潟県中越地震では、私の住む野沢温泉でも震度4を記録しました。SAJとしても、被災者に対する援助を検討しています。

◆札幌でメダルが取れなかったからメダルを取る人間を育ててみたい

 さて、スキーに限らずスポーツでは、指導者と選手の人間関係が大切だと考えていますが、本題に入る前に、まず私自身のことをお話しします。

 私はもともと北海道の出ですが、カミさんが野沢温泉の出なもので、今は野沢の人間ということになっています。アルペン選手だった札幌五輪の後、一時はプロに転向しようかとも思ったのですが、札幌でメダルが取れなかったから、メダルを取る人間を育ててみたいという思いから全日本に残ることにしました。日本人としてアルペン競技ではじめてメダルを手にした、現在のIOC委員の猪谷千春さんに、日本人のアルペン選手にメダルをかけさせてあげたいという思いで、ずっと現場でコーチとしてやってきました。

 今は全日本の中で6つのセクションを統括する位置にあるので、広く浅くになってなってしまっています。

 私が初めてコーチになったのが26歳のときでした。まったくの駆け出しでしたが、ともかく選手と一緒になって滑ることができました。
  コーチになって最初に困ったのが、言葉の問題でした。遠征先のレストランでステーキを注文したのですが、ウェイターが何かをしきりに聞いてくる。どうも肉の焼き加減を聞いているらしいと分かったのですが、言葉が分からないから、身振り手振りで焼き加減を説明するのに四苦八苦した思い出があります。そのときは、もう情熱だけでやっていましたから、大変だという気持ちはまったくありませんでした。しかし、当時の選手には大変な思いをずいぶんさせてしまったなと、今では少し申し訳なく思っています。

 それでは、選手のことを少し話しましょう。

海和俊宏選手
◆競輪選手への転向を本気で勧められた

 まず、海和選手ですが、ある時スキーの筋力トレーニングにいいというので始めた自転車のトレーニングで、修善寺の競輪学校へ行ったときのことです。一から自転車の乗り方を習いながらトレーニングを始めたのですが、最後の頃には海和選手は競輪選手の標準タイムを上回るタイムを出すものですから、学校関係者に競輪選手への転向を本気で勧められました。それくらい彼の運動能力は並外れて優れたものがありました。

◆こちらの指示には確実に従ってくれる選手

 また、非常に真面目な選手で、サンアントンの大会で7位に入ったときのことです。この日の1本目は3位につけていました。私は2本目のコースの状況を確かめに出て、2つ目のストレートの出口がガリガリに凍っていて、みんなそこで失敗していることに気がつきました。そこでそのことを無線でスタートに連絡し、そこはアイスバーンを避けて「大きく」巻けと指示をしたところ、彼はものすごく大きく巻いてしまったので、かえってタイムロスをしてしまい順位を下げてしまったのです。後で、もう少しいいアドバイスをしてくださいよと言われまして、私も大いに反省をしましたが、こちらの指示には確実に従ってくれる選手でした。

児玉修選手
◆選手はけなすと落ちていき、おだてると木に登る

 次は、現在の全日本のヘッドコーチをしている児玉選手です。海和と同期ですが、どうしたわけか2人揃って調子がよいということがありませんでした。必ずどちらかが調子が悪いのです。選手というものは、大会が近づくと自然と緊張してくるものです。例えば、海和が練習で43秒くらいのタイムだと、児玉は45秒前後ということがよくありました。そのとき児玉が何秒くらいですかと聞いてくるので、私は、「なーに海和とコンマ差だよ」とサバを読むわけです。そうすると、すっかり気分をよくしてタイムも上がってくる。そういったものです。選手いうものは、注意ばかりしているとどんどんダメになっていきます。おだてると何とかも木に登るというくらいで伸びていきます。反対にけなすと落ちていく。選手はまさに生き物です。時にはうそもまた方便ということを地でいっていました。

岡部哲哉選手
◆努力と馬力

 私は、海和選手たちの後も選手に恵まれていました。まったく、コーチは選手次第で、いい選手にめぐり合うことがコーチ冥利に尽きると思っています。

 その選手が、岡部哲哉選手です。私と同じ北海道の出身ですが、海和に比べるとまったく不器用なのですがとにかく馬力がある選手でした。身長170cmもない海和と180cmを越す岡部という対照的な選手でした。しかし、なんといっても彼は努力の人といっていいでしょう。私が知っている選手の中で、最も練習した選手がこの岡部選手です。

 メジャーリーグのイチロー選手の父親が、イチローはすべてを犠牲にして野球をやってきたから記録につながったので、別に驚くことではないと言っていましたが、同じことがこの岡部選手にも言えるでしょう。例えば、こんなことがありました。ヨーロッパの2大クラシックレースの一つ、キッツビューエルの大会で、彼は2位に入ったのです。そのころ彼は、暴走族とあだ名されて(事実2・3度事故も経験しています)誰も乗る者がない私の車の助手席に乗ってくれていました。そのため大会の後、コーチの私と彼は、大会のリザルトをもらってから会場を後にするため普通の選手より1時間以上遅くインスブルックのリーザさんの宿(当時の定宿、とても日本びいき)に戻りました。大体、夜8時半くらいの時刻だったと思います。2位入賞は初めてのことだったので、お祝いをしようと思っていたら、もうほかの人たちは食事に出たあとでした。そうしたら岡部が練習してから食事にしますと言って、トレーニングウェアで出てきたのです。そうか、じゃあ俺も付き合うかといって(普通なら付き合わないこともあったけれど、なんせ2位入賞の直後ですからね)夜のインスブルックの街をいっしょに走りました。でも、彼にはとてもついていけないので、途中ショートカットを何度かしながら、なんとかついていきました。そして、トレーニングが終わったのが10時、食事に出たのが10時半頃でした。そのときに、海和とはまた違ったものを彼に感じました。岡部のよさは努力なんだとつくずく思ったのです。結局、彼はワールドカップでは日本人最高の2位に入賞したのです。(佐々木選手もウェンゲンで2位に入っています。)

川端絵美選手
◆自分を追いつめて努力

 次は、女子の川端絵美選手です。彼女の場合は、彼女というよりはお父さんが一風変わっているというのか、中学校まで行かせたら、上の学校に行かせることを止めて、私のところに下宿させてくれと頼まれてしまいました。即答できませんから、家に帰ってカミさんに相談してOKをもらえたので、お引き受けすることになりました。そこで、彼女がえらかったのは、通信教育で高卒の資格を取ると言い出したのです。スキーと勉強の両立は難しいと話したら、「学校に行くよりはずっと楽だよ。」というのです。当時、アメリカでは、すでにスキーのトレーニングは午前中に行っていました。午後に運動するとけがが多くなるという調査結果に基づくトレーニング方法が出来上がっていたのです。それで、午後に勉強をするということで、通信教育を始めました。

◆いくつかのスキーの常識を覆した

 彼女とは、いくつかのスキーの常識を覆しましたが、そのひとつが、当時のスキーには瞬発力のみが要求され筋肉トレーニングはタブーとされていた問題です。私は、川端選手にトライアスロンを週2回することをトレーニングとして課しました。そんなことで、彼女の毎日のメニューは、朝6時に起床、40分散歩してストレッチ後、朝食を摂ります。9時からトレーニングを開始して、午後1時半に昼食、夕方軽いトレーニングをして、夕食をすますと9時半になります。その後、夜の10時から毎日2時間くらい勉強をしていました。それを見て、私は、この子なら高校に行かなくても大丈夫だったんだなと思いましたし、結局、通信教育も合格をしました。

 本人がそうなのか、お父さんの影響なのか分かりませんが、逃げ場をなくして、自分を追いつめて努力した結果が、あの成績につながっていったのだと考えています。

◆こいつはとんでもないタニキだ

 ヴェールの大会で彼女のコーチのなり手がいないと泣き付かれてしまい、義理の弟の片桐幹男に頼んだのですが、「彼女はなあ…」と断られてしまって、結局、私が専属のコーチになってしまいました。それは、彼女が非常に自己主張が強い選手だったということで、例えば、TV取材中に絵美と私で口論になってしまい、自説を曲げない彼女が泣きながら取材に応じたということがあったくらいです。さすがにそのシーンはカットされてしまいましたけれどね。そのくせ、同期の山本さち子選手らといっしょのトレーニングだと腕立て伏せは3回くらいで「絵美もうだめー」と言ってすぐにだらけていたのに、うちに帰ると50sのバーベルのベンチプレスを平気で何セットもこなしていました。こいつは、とんでもないタヌキだなと思ったものです。

◆ジャンプはつぶすより飛んだ方がいいと言う

 ところで、ヴェールの大会で5位に入賞したとき、1位とはコンマ差でした。これは、ヴェールのコースを設計したベルンハルト・ルッシのコースは、ウェーブが多いことで知られていますが、そのためにジャンプが多かったためなのです。絵美は、自分でもジャンプは好きだと言っていました。しかし、理論上はジャンプはつぶした方がいいのです。ここでも彼女は常識を覆すのですが、ジャンプはつぶすより飛んだ方がいいと言うのです。それなら、というので、GSのコースをすべてクローチングで滑るトレーニングを行いました。最初は全くできませんでしたし、彼女もなぜこんなトレーニングをするのか納得していない様子でした。ですが、これを続けるうちに、本人も気づいたようですし、どんな時でも空中のクローチング姿勢が崩れない技術を得ることができたのです。これは、大変な技術で、これがヴェールの入賞につながったと言えるでしょう。

 しかし、その後の大会で、彼女は大きなけがをしてしまいました。2ヶ所あるジャンプのうち、難しい2つ目のジャンプで巻きながらジャンプしなけばいけないところをまっすぐに、しかも飛びすぎてしまい、靭帯を切ってしまったのです。アメリカには靭帯治療の権威であるDr.ステートマンがいることを知っていたので、彼に頼むかと聞いたら日本に帰りたいと言ったのです。それで、日本鋼管病院のDr.栗山に頼むことにした。帰国する途中患部を動かしながら搬送して行ったら、病院のスタッフがとんでもないという顔をしたのです。その当時の日本では、靭帯損傷の場合、患部は固定するのが常識だったのですが、いまでは米国流が常識になっています。

 怪我の後、もうレースは止めるといっていたのですが、もう1回がんばれと励ましました。しかし、その当時は、私の言うことより、カミさんのいうことをきくようになっていたんですね。それで、カミさんに励まされて再起を果たし、結局3位入賞という結果を残すまでになったのです。

木村公宣選手
◆ひょろひょろのいわゆるもやしっ子

 さて、次は木村公宣選手です。彼のことは、ジュニアの頃から知っていたのですが、ひょろひょろのいわゆるもやしっ子というのでしょうか、とても世界で戦うのは無理だと思っていました。ただ、選手のタイプでいえば、海和タイプで、非常に器用で運動能力の高い選手でした。たとえば、彼は普通ゴルフをやらないのですが、たまにクラブを握るとプロよりも飛ばすんですよ。当たればですけれどね。(笑い)

 また、非常にしっかりした考えの持ち主で、選手生活を続けている最中に突然結婚したい言い出したので、選手をやめてからでもいいのではないかと思って話したのですが、結婚して海外へ留学してやっていくというプランをきちんと話してくれたので、よしということになりました。

 彼のころには、私はヘッドコーチという立場で、選手個人に付くコーチではありませんでした。彼のメインのコーチは非常に思い込みの激しいタイプのコーチだったので、それが後でいろいろ影響してきます。

◆選手は叱るだけでは伸びない

 一時成績が出なかった時期があって、知り合いのストラットマウンテンのフリッツコーチに任せたことがありました。そこでオーストリアの選手といっしょに滑ると、3秒も負けてしまうというのです。そこで練習を見に行くと、大声で口ゲンカをしている日本人がいるのです。それが木村とコーチでした。ほかに日本人なんていないのですから、間違いっこありません。そこで、2人に、一般道を40km/hで走るのがスラロームというレースだ。50ccのバイク(日本人選手)が750ccのバイク(ヨーロッパの選手)とでも何とか対等に勝負できる世界だと言いました。そして、リフトの上でともかく楽しくやれと木村に言いました。こんな状態では、だれも手伝ってくれなくなるぞと。そうしたら、その次にベストタイムをたたき出したのです。選手は叱るだけでは伸びないということだと思います。

◆木村は7位ですから50%の確率

 その後、ベイソナで3位に入った後、長野オリンピックになるわけです。オリンピックになるとプレス関係の問題が出てきます。「メダルを」と言われると選手は緊張するものです。しかも、前年のプレ大会で4位に入っているわけですから、当然報道も加熱してくるわけです。それに木村は本当に気が優しい男で、気が弱いといってもいいくらいですから、よけいです。それまでは携帯や新聞を見せることも止めていたのですが、プレ大会ではオープンにしていました。ベイソナで3位に入ったのはオリンピックシーズンでしたし、世界ランキングは7位で長野を迎えました。いよいよ、猪谷さんの願いをかなえる材料がそろったと思ったものでした。オリンピックで1位〜3位に入っている選手は、世界ランキング1位〜5位の選手が80%、ランキング5位〜10位が50%、11位〜15位が20%の確率というデータを我々は持っていました。つまり木村は7位ですから50%の確率と読んだわけです。ただ、第1シードに2人、第2シードに2人と目論んでいたのですが、木村1人しか入れなかった。これが大きな誤算でした。

 長野でのジャンプチームの成功は、第1シードに6人入れる力がある中で3人を送り込んでいるのですから強いわけです。正直に言って、選手育成の失敗があったと言わざるを得ません。

 ここまで来たのは大変なことだが、4年に1度の選手に入っている、そういう中では、世界中の選手もそうなのだから、ラッキーはないと言える。その中でがんばれば結果はついてくると思っていました。

◆バターを塗る手が震えていることに気が付いた

 当日、1本目13位でしたがトップと1秒03の差でした。トランシーバーで公宣を出してといったら数秒間沈黙があった。普通のワールドカップの大会ならすぐに「はーい、公宣です。」とすぐに答えるのですが。そして、2本目フルアタックすれば逆転も可能だぞと言ったのですが、本人から返事がなくサポートのコーチから、分かりましたと返事があった。結果、アタックせずに14位に終わった。

 レース後、その日は会いたくないというので、翌日の朝食を9時にということにして、翌朝、志賀のプリンスホテルで食事をしながら話しました。すると、昨日の朝6時までは非常にリラックスしていたというのです。6時に朝食を食べにきたら、ガラス張りの通路から下のホールに両親を含んだ青森県の応援団が来ているのが見えたので合図をしたというのです。当然のことながら、ウワーッとすごく盛り上がってしまったのですが、そうしたらすごく緊張してしまって、食堂でバターを塗る手が震えていることに気が付いたというのです。

 そうならないようにするのが、コーチの務めだと思っています。しかし、一緒にサポートする選手がいなかったのが最大の失敗だったと考えています。


◆100%の選手が「他人に負けない練習量」

 今年、アテネで若い人たちが平気で金メダルを取っている。どうしてか。研究員がいろいろな情報を流してくれています。その中に、メダルを取った自信は何かという問いに、100%の選手が「他人に負けない練習量」と答えています。マラソンの野口選手は、通常マラソンではあんなに筋力トレーニングはしないということを言っていました。しかし、何がよくて何が悪いというものはないと思っています。出た結果で科学性を持つのであって、結果を事前に読むことはできません。また、悪いところを直すのは、いいことろもつぶすといわれています。いいところを伸ばせば、わるいところも直るということです。川端絵美のトライアスロンも結果的にはよかったということだと思うのです。

 ところで、大会の運営がうまくいく、いかないは、選手の育成、強化に関係してきます。私が関係している、野沢の大会はお金のかからない大会を目指していますが、特別に春には海外から3人の選手を呼び参加してもらっています。皆川選手はこの大会で優勝して世界45位に入ってきました。それまでは60位以下でした。こういうことが強化と運営がうまくいった例だと思うのです。安全面に配慮することはもちろんです。

 荻原健司選手が参議院選挙で当選しました。当時の全日本の堤会長と長野県の北野会長がいろいろ苦労して、スケートの橋本聖子選手に続くスポーツ界からの国会議員をということで、彼に白羽の矢が立ったということです。彼は、これからはスポーツを国で支援しなければもう無理だという考えで、スポーツ省を作って強化をしていきたいと述べています。そのためには1期6年では無理なので、2期12年でやりますと言っていました。彼の後援会でもなんでもないのですが、これからのスポーツを考えるとき、6年後もよろしくと言いたい思いです。

広報委員会 守谷紀幸


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