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再び思いっきりスキーができる日まで

木村明子


 3月11日14時46分。関東東北地方で起こった想像を絶する大震災。皆さんのご家族やご親戚、友人、知人、あるいはご本人様は大丈夫でしたでしょうか?
被災された皆様には、心よりお悔やみとお見舞いを申し上げます。

―皆さんはあのできごとをどこで体験しましたか?
私は現在福島市に住んでいます。あの地震の日も福島の自宅マンション7階にいました。明るい陽射しが注ぐのどかな日でした。少し遅い昼食を済ませて部屋でのんびりとしているところでした。「3時ごろになったら車のガソリンとストーブの灯油を入れに行こうかな」などと考えながら、うつらうつらとしていました。すると、突然鳴り出した携帯電話とテレビからの地震警報音。私は慌てながらもいつものようにストーブを消し、扉を開け、少し背の高い食器棚を手で押さえました(本来はやるべきではありませんが)。2日前にも震度4程度の地震があり、友人らと「地震に備えて対策をしなきゃね」と話し合ったばかりでした。

そんな矢先に訪れたあの大地震。いつもとは様子の違う揺れに、私は慌ててテーブルの下に潜り込みました。何度も何度も激しい揺れが襲い、家の中のあらゆるものが倒れ、落ち、割れる音が部屋中に響きました。それは味わったことのない恐怖でした。私は耐えられず、恐怖心をかき消すように大声を出し、ひたすら叫び続けていました。

 そして、揺れが少し収まったとき、テーブルの下から出てみると、部屋の中はめちゃくちゃ。食器棚、タンス、電子レンジや倒れることはないだろうと思っていた重く低い本棚までが倒れ、玄関に抜ける3箇所の導線をすべて塞いでいました。「とにかくここから出なければ!」。とっさに携帯電話と財布の入ったバッグ、ダウンコートを持ち、倒れた棚を必死で起こし、なんとか玄関までたどり着きました。しかし、当然のことながらエレベーターは停止。断続的にやってくる余震の中、非常階段を下りるしかありませんでした。1階までたどり着きホッとしていると、明るかった空が一変し、風とともに雪が降り、しばらくすると雨が降り・・・、また少しするとパーッと明るくなり、その後また雪が降り出しました。めまぐるしく変化する不気味な様子はまさに「天変地異」を実感させるものでした。

それから数日間は何度も何度も地震警報音が鳴り、揺れ、そのたびにドキドキしていました。小さな揺れもこれから大きくなるのではないかという不安が常によぎるのです。なかなか落ち着かない余震に加え、福島は原発問題までも深刻化してきました。そこで、震災から1週間経った3月18日、主人や周囲の方々の勧めで私だけ一時実家(神奈川)に帰ることになりました。しかし、実家に帰れる安心感とは裏腹に「帰ってよいのか?」という思いが重くのしかかりました。はじめは自分のことで精一杯だったものの、日が経つにつれテレビや人からの話で各地の様子を知り、自分にとっては最大のこの恐怖体験も津波被害や液状化被害にあった人たちに比べれば、まだまだマシなほうなのだということを知ったからです。


「帰ってきて良かったのだろうか?」。そんなモヤモヤとした気持ちの中、実家にいることを知らせた市協の方から『「I LOVE SNOW」 One’s Handsプロジェクト』の案内をいただきました。「何か動かなきゃ!」。そんな思いですぐに参加申し込みをしたのですが、「I LOVE SNOW」は今まで私もステッカーを貼ったりして推進してきたものの、具体的な活動はしたことがなく、正直なところ、どのようなプロジェクトなのか疑問でした。けれども、活動場所である東京のとあるビルに行くと大勢の学生や社会人が集まっていて一人ひとりが真剣に、しかも皆積極的に作業をしていました。私は3日間のうち最終日である3月24日のみの参加でしたが、集まったボランティアは3日間で延べ310人だそうです。後から、県連所属のスキーヤーも参加していたと聞きました。

全国各地のスキーヤーから届いたスキーウェアなどの物資は6万点余り。トップスキーヤーたちのネット上での呼びかけで始まったというプロジェクトだそうですが、それに速やかに賛同し参加した仲間がこんなにもいることを知り、胸が熱くなりました。

具体的な活動内容は、全国から集まったスキーウェアや衣類を検品して、分類しながらダンボールに梱包していくというもの。――「自分だったら嬉しいかどうかという厳しい目で見て判断してください」。最初に言われたその言葉は、集まったものをただ送るのではなく、被災者の方に喜んで使ってもらえるように送る必要があるということでした。皆、「何かしたい」という気持ちがあったからこそ送ってくれた品々でしょう。しかし、なかには汚れたままのものや収納ケースの奥底に眠っていたであろう鼻をツンとつくような臭いのするものなど、厚意を受け止めつつも除外せざるを得ないものも多くありました。

その後、神奈川県一時避難所の受け入れボランティアにも登録し、こちらでも物資の仕分け作業を行いましたが、やはり前述のことと同様のことがありました。被災地は要らないものの行き場ではないのに・・・。その一方でわざわざ水や生活用品を購入してきて「少ないですがお役に立ててください」という方もいました。どちらも「何か役に立ちたい」という思いは一緒なのでしょうが。

そんな体験から、「ひとりではできないことも大勢が集まればまとまった大きな力になる」、「しかし、送る側の気持ちと送られた側の気持ちを上手につなぐ人や組織がいなければいけない」ということを知りました。また、気仙沼で被害にあった知人が「物資はいっぱい来るけど、もう置くところがない。物もありがたいけれど、人やきちんとしたシステムが欲しい」と電話口で悲痛な思いを語っているのを聞き、ボランティア活動は自己満足ではなく、やるからには相手が喜んでくれなければ意味がないということも痛感しました。とは言え、相手の立ち場をいくら想像しても同じ立場にない以上、それは“想像”に過ぎず、思いがうまく届かないかもしれません。それでも、動かなければ何も伝わらないし、変わらない。芸能人やスポーツ選手が被災地へ出向く光景などに対し、「売名行為だ」と批判する人がいますが、例え売名行為であってもその行為を喜んでいる被災者がいるのなら、何もしない人よりもずっといいのだとも思います。

あれから2ヶ月――。今でも毎日のようにテレビや新聞などであの震災や原発問題が報道されています。そんな日々を皆さんはどう過ごしているでしょうか?

私は今、再び福島市で生活をしています。余震の回数も減り、元の生活を取り戻しつつあるのに、目に見えない放射能という難題がつねにつきまとっています。周囲を見渡せばいつもと変わりない素晴らしい景色が広がっているのに・・・と思うこともあります。早く思いっきり自然の空気を吸いたいものです。

今、もっとも感じることは、2ヶ月経っても「あの震災は終わっていない」ということです。そして、時間が経つごとに場所や状況、立ち場、性格によってさまざまな温度差が生まれ、大きくなっている気がします。阪神淡路大震災や中越地震のときの自分の行動を考えても、それは仕方のないことだと納得はしているものの、今だに避難生活を送り不自由を強いられている人が大勢いると思うと、これ以上温度差を広げてはいけない気がしてなりません。かと言って何ができるのか?まだ答えは見つかっていませんが、東北には素晴らしいスキー場もたくさんあります。天災を止めることはできませんが、なんとかして復興の手助けはできないかと考える毎日です。

今年は3月のあの日以降、予定されていた県連行事が中止となり、雪があるのに閉鎖せざるを得なかったスキー場もたくさんあります。でも、来シーズンは東北をはじめとするたくさんのスキー場でまた多くのスキーヤー&スノーボーダーが思いっきり滑ることができるよう祈りたいと思います!祈るだけではなく、一歩一歩やっていきたいと思っています!そして、これを機にウィンタースポーツブームが再来することも心から願っています。

最後に、地震直後からご心配いただき、メールやお電話くださった皆様、連絡を待っていてくださった皆様、本当にありがとうございます。この場を借りて心より御礼申し上げます。


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