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平成25年度 第1部 スキー公認検定員クリニック理論 第2部 スキー指導者研修会理論 第3部 シーズン開幕式/選手認定式・表彰式 2013年11月9日(土) 川崎市教育文化会館 広報委員 守谷紀幸、桂林正彦、中里健二、大井智子、高木豊 |
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【スキー指導者研修会理論】 ■岡田教育本部長 挨拶、及び特別講師紹介 いよいよシーズンがスタートします。友だち、家族を誘って、スキー界を盛り上げていただければと思います。 本日は、元・国際オリンピック委員会(IOC)副会長で、東京都スキー連盟の猪谷千春会長に講演をお願いしております。 猪谷会長は、東京オリンピック・パラリンピックの招致委員会評議会委員としても活躍されました。また、冬季オリンピックの日本人メダリストの第一号でもあります。
■東京都スキー連盟・猪谷千春会長 講演 私はスキー資格の5級も持っていないので、指導員のみなさんを前にしますと少々引け目を感じるのですが、日本のスキー界の発展にご尽力いただいていることに、敬意を表しております。本日は、「東京オリンピックの招致」「選手時代の思い出」「国際オリンピック委員会在任中の思い出」について、お話しします。 <東京オリンピックの招致> ●3都市での競合 9月7日、東京は2020年のオリンピック招致に、ライバルのマドリード、イスタンブールに競り勝ちました。私は29年間、国際オリンピック委員会(IOC)に在籍しましたが、今回ほどIOC委員が都市の選抜に苦労したことはありませんでした。3都市とも内外に問題を抱えていたからです。 マドリードは、高い失業率と経済危機を抱えていました。イスタンブールは隣国シリアの内紛に加え、国内デモなどにより政局が不安定でした。日本は中国や韓国との外交問題のほか、福島第一原子力発電所の地上タンクからの放射能漏れの問題がありました。 そうした中で日本が競り勝つことが出来たのは、政財界やスポーツ界の後押しのほか、国民の支持があったからだと思います。前回敗れた2016年東京オリンピック招致の時は、国民支持率が56%でしたが、今回は70%に上がりました。 ●福島第一原発の汚染水漏れ事故への不安を払しょく 各都市が最後のプレゼンテーションを実施したアルゼンチンのブエノスアイレスでのIOC総会では、3都市とも肩を並べていました。ところが決戦1週間前に、福島第一原子力発電所の地上タンクから汚染水漏れの事故が発生したことで、東京はライバル都市に大きく後れをとることになったのです。 プレゼンテーション前夜は午前1時まで、安倍総理大臣や側近との話し合いが続き、私たちの方から福島第一原発の汚染水漏れの状況について話をして、関係者の心配を払しょくした方がいいということになりました。ただし安倍総理のプレゼンテーションの持ち時間は3分。最後のQ&Aで質問が出たら、それに答える形で説明をしてもらうことになりました。 翌日、実際にIOC委員から質問が出ました。安倍総理は開口一番、「新聞の見出しは信用しないでください」と切り出したのです。首相である自分の言うことを信用してほしいとデータを示して現状を説明し、政府が指揮を取ってこの問題を処理すると話してくださり、IOC委員の心から心配事を払しょくしてくれました。これが勝利への大きなポイントとなりました。 ●すばらしいプレゼンテーション プレゼンテーションについては、過去の「長野」「大阪」「前回の東京」招致活動の中で、今回が最高の出来ばえでした。みんなが英語やフランス語で、相手の顔を見ながらプレゼンテーションしていました。メンバー全員が練習を重ねてスピーチを自分のものとし、原稿を見ないで訴えかけた。あるIOC委員は、東京招致のプレゼンテーションを見て、「あれほど顔の表情が豊かで、身振り手振りで表現し、抑揚があり、心に訴えるプレゼンテーションをする人は見たことがない」と話していたほどです。 高円宮妃久子さまは、フランス語で挨拶をした後、英語で、3.11東日本大震災への各国からの支援に対して感謝の気持ちを伝えられました。また、日本ではいかにスポーツの人気が高いかについても話されました。日本の皇族が話される場面をみなが初めて体験したせいか、会場の空気が和らぎました。 佐藤真海選手は、片足を失ったことや、スポーツがいかに自分を力づけてくれたかということについて、流暢な英語で話しました。 安倍首相は、自信たっぷりに、東京を選ぶということは、オリンピック運動の力強い推進力を選ぶことと、話しました。 そうした3人の力がプレゼンテーションの場で結集したと感じました。 ●東京への追い風 また、ライバル2都市に問題が浮上したことも東京への追い風になりました。イスタンブールはシリアの問題、マドリードはIOC委員をレストランに呼んで投票を依頼したことなどが問題になりました。また、2都市では選手のドーピング問題も抱えていましたが、日本の選手にそうした問題はありませんでした。 もう一つの追い風として、2014年ソチオリンピックや、2016年のリオデジャネイロオリンピック、2018年の平昌オリンピックにおける、会場整備や建設計画の遅れ、新幹線整備計画の白紙化などの問題がありました。日本は原発の問題さえ払しょくできれば、資金に問題はなく、組織運営も素晴らしい。どこへ行っても安全で、スポーツを生きがいにしている国民は多く、国としてオリンピックの支援もしています。そうしたことから、最後は60票対36票という雪崩現象で勝利することになったのです。 オリンピック招致に勝利したことはうれしいのですが、一つ残念なことがあります。それは、オリンピックが東京で開催されることが決まり、経済効果に期待する声や、スポーツを盛んにしようという機運の盛り上がりはあるのですが、「オリンピックを通じてよりよい世界をつくろう。平和な世界をつくろう」といった発言が聞こえてこないことです。オリンピックの主体は平和運動で、私はそれこそがオリンピックの最も重要な役割だと思っているのです。
<選手時代の思い出> ●父が考案した前傾バンド付きのスキーで腕前磨く 私は小さいころからスキーに親しんできましたし、スキーのために米国の大学にも留学しました。また、「前傾」「外向」「外傾」という猪谷流の独自のスキー術を持っていて、外国の選手と互角に戦ってきた。それらのことが、スキーで成功することのできた大きな理由だと思っています。独自の挑戦を続け、1956年のコルティナダンペッツォオリンピックのスキー男子大回転で、金メダリストのトニー・ザイラーに次いで、銀メダルを獲得することにつながったのです。 私の父は日本スキー界の草分けの猪谷六合雄で、母はジャンプの選手でした。スキーは2歳9カ月で始めました。北海道の東にある千島列島の国後島で春生まれたから千春と名づけられました。75年前のスキーはかかとが上がるつくりになっていて、「それではスキーをコントロールするのは難しい」と考えた父が、かかとの締め具を考案してつくってくれました。前傾バンドでかかとが上がらないようにしたのです。そのおかげで、スキーでやりたいことができるようになりました。 当時、ポールなどはないので、コースは山の斜面にある樹木の間をくぐり抜けるというもので、一歩間違えるとけがにつながる。真剣勝負です。ジャンプの練習では、空中にいる間どうなっているのかをすぐに頭で認識して、足を出して転倒しないようにしました。バランス感覚を養い、自分の頭がどこにあるのかを認識するために、高さ10mの飛び込み台から飛び込んだりもしました。 ●米国の大学生活で「文武両道」を実現する 私のスキーは外向傾が基本です。1956年1月号の『Newsweek』誌では日本の運動選手としては初めて、表紙を飾りました。その1カ月後にコルティナダンペッツォオリンピックに出場し、スキー男子回転で銀メダルを獲得しました。その時のゼッケン7番は、それ以降、私のラッキーナンバーとなりました。1958年のオーストリア世界選手権では、1本目の回転はラップタイムで、銅メダルを獲得しました。 当時、留学先の米国ダートマス大学で私が目指したのが「文武両道」を実現することでした。期末試験で10科目の平均点が60点を下回ると、海外選手権に出場できないなどの制約が課せられるからです。 そのために、例えば床に教科書を置いて、腕立て伏せを200〜300回続けて腕力を付けました。教科書を読みながら、30分以上「空気椅子」を続けるといったことにも挑戦しました。人間が集中して勉強できる時間はおおよそ45分間。その合間の休憩時間に友人たちはコーヒーを飲んで頭をすっきりさせていましたが、私は柔軟体操をして目を覚ましたものです。回転競技では、旗門を覚えることも重要です。記憶力を鍛えるために、講義中はノートを取らずに、部屋に戻ってから講義内容を思い出してノートにまとめたりもしました。 こうした努力を重ねて、4年間で大学を卒業しました。2年生でスキーチームのキャプテンを務め、3年生の時は全米選手権で銀メダルを獲得、4年生の時は、4年間を通して大学内外で活躍した学生に贈られる「ダートマスカップ」をもらうことができました。 みなさんも、一般スキーヤーに「強い足腰をつくるためには、家の中のトレーニングで簡単にできる」ということを、ぜひ教えてあげてほしいと思います。 ●「夢を抱き、目標を立てて、幸運の星をつかむ」 選手生活を通して学んだことを、項目別にお伝えしたいと思います。 まず、「ライバルと同じことをしていては勝てない」ということ。例えば東京オリンピックで日本の女子バレーが優勝したのは回転レシーブなど独自の技術を編み出したことなどが大きいと思います。 「ゼロベース思考」も大切です。ものを考えるとき、あるデータがあることで前に進めない場合もあります。経験に惑わされず、ゼロに立ち返ってものを考えるのです。 そして、幸運がやってくるのを寝て待つのではなく、自分で努力して鍛錬して「幸運の星をつかむ」のです。 そのためには「特技を見つける」ことが大切です。私はスキーという特技を持っていたので、新しい世界に飛び込んでいっても「スキーの猪谷さんですね」と声をかけてもらえるようになりました。 そして「夢を持つ」こと。しかも、できるだけ大きな夢を持つことが大切です。そこへ到達するために、1つか2つの低い目標を持つことも大切です。私はサラリーマンの時、45歳で会社の社長になろうという夢を抱きました。そして30歳で部長になり、46歳で社長になりました。 このように、自分で何かをやろうとした時は「目標を立てる」ことが大切です。スキーでは、日本の代表になってオリンピックに出て、メダリストになるという目標を掲げました。IOCで理事になり、会長になるという目標も立て、一つずつクリアして副会長になりました。残念ながら、当時はアジアの人間が会長を務める雰囲気にはなかったのですが。 ●リスクを負って金メダルに挑戦したことに満足 そうして「後悔のない人生」を送りたいものです。私は3度目のオリンピックの時、男子回転の1本目でトップとは100分の3秒差しか遅れていませんでした。2本目のスタート台では、金メダルを取ることしか頭にありませんでした。金メダルを狙うためにはリスクを背負う。自問自答し、「それでもいいい」と思ったのです。覚悟を決めて挑戦し、結果は13位でしたが、まったく後悔していません。 「前向きの人生」を送りたいと思っているからです。今日負けても、明日勝てばいい。 「逆境に強くなる」ことも重要です。人生にはいろいろなつまずきがあります。そこで何とかゼロベース思考で自分の道を開くのです。 そして「最後まであきらめない」。私はコルティナダンペッツォオリンピックのスキー男子大回転の2本目で、ポールに外足が引っ掛かってしまった。そこであきらめず、カニにように開いた外足を引っ張って、何とか競技を続けました。0.5秒は損したと思いますが、あきらめなかったことで、銀メダルを取ることができたのです。 <IOC在任中の思い出> ●スポーツ、文化、環境が3本の柱に 私は1982年から2011年までの約30年間、IOCに在籍しました。その間、IOCにおける様々な環境の変化がありました。当初は政治とスポーツの距離を置くというIOCのスタンスでしたが、現在は、政治と組んでスポーツの発展を目指すという形に変わってきています。そうしなければ、例えばテロの脅威からオリンピック会場を守ることはできません。莫大な費用のかかるオリンピックを成立させるには、政治の力が必要なのです。 商業主義の導入もしかり。人体のコレステロールと同じで、人はコレステロールがなければ生きていけません。わいろでお金をつくるような悪玉コレステロールはダメですが、善玉コレステロールを活用していきたいものです。 また、環境共生の考え方も当たり前のようになってきました。昔は木を伐採してスキーコースをつくり、山肌に傷跡を残してきました。1994年のリレハンメルオリンピック冬季競技大会では、「地球に優しいオリンピック」をスローガンに掲げ、環境保全への理解が深まり、「スポーツ」「文化」「環境」という3本の柱ができていったのです。 ●評価委員会を立ち上げる スポーツにおけるドーピング問題も出てきました。これは商業主義を導入したことによるマイナス面です。ドーピングは健康に害を及ぼしますし、金銭的に選手に負担が掛かるうえにフェアじゃない。ドーピングや八百長問題はスポーツ界から排除すべきことなのです。 5年前にはシンガポールでユースオリンピック大会がスタートしました。現代の若者は基礎体力が落ちていますし、スポーツ離れで肥満児も多くなった。小さなころからスポーツに親しむことで、これらの問題を解消したいですね。 ほかにも、この30年間の間に、IOCには様々な変化がありました。スポーツ界での女性の地位向上に伴い、IOC委員にもやっと一人女性理事が誕生しました。また、オリンピックの出場資格についても、アマチュアやプロといったことが問われなくなりました。そのほか競技スポーツについては、現代社会にマッチしたスポーツになるように4年ごとに種目の見直しが行われるようになりました。 大会開催都市の選定については、IOC委員が実際にその都市を訪れて、目で見て体験して決めてきたのですが、スキャンダルなどがあってからは開催都市への訪問も控え、「評価委員会」を立ち上げて検討するようになりました。私も評価委員会の立ち上げに尽力し、ソチオリンピックでは、評価委員会委員長を務めました。私は2005年にIOC総会で副会長に当選し、2011年に80歳定年制により、IOC委員を退任しました。 <指導者のみなさんへ> ●十人十色の指導をしてほしい スキーブームは下向きになり、残念なところですが、アベノミクスや東京オリンピック招致の成功で、日本の経済は右肩上がりになり始めています。そうした動きに連動し、スキーヤーがスキー場に戻ってくるかもしれませんね。 私から、指導者の人たちへのお願いがあります。 みなさんが10人の生徒を持った時に、個人の特徴にあった指導をしてほしいと思っています。生徒の考え方や運動神経はみな違います。十人十色の個性に合った指導法で、一人一人にわかりやすいスキーを伝えてください。 そうして、みなさん、どうぞすばらしいシーズンをお迎えになってください!! それが、私からのメッセージです。 |
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